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近藤正勝 2021年 東京 / 名古屋, outermosterm.com
近藤正勝 2021年 東京 / 名古屋, outermosterm.com

近藤正勝 2021年 東京 / 名古屋    2021年9月16日

目次

  • 1 近藤正勝  Masakatsu Kondo
  • 2 近藤正勝 Element/エレメントTHE CLUB
  • 3 近藤正勝 静止スーパーギャラリー

近藤正勝さんは1962年、愛知県生まれ。1993年に英国のロンドン大学スレード・スクール・オブ・ファインアートを卒業。ロンドンを拠点に活動している。
筆者は、1990年代、名古屋にあったコオジオグラギャラリーでの個展などを取材した経験がある。
2000年には、東京オペラシティアートギャラリーでのグループ展「プライム・記憶された色と形」にも参加した。ロンドンのヴィクトリアミロギャラリー で、ピーター・ドイグ、クリス・オフィリらとのグループ展に参加するなど、英国での発表歴も多い。

近藤正勝 Element /エレメント     THE CLUB(東京) 2021年9月4日〜10月9日

東京の会場は、THE CLUB(GINZA SIX 6F )である。洗練された空間に、風景をモチーフとした大型の絵画が展示されている。近藤さんは、絵画制作について、自然界をアーティフィシャル、すなわち、人為的、人工的に解釈する作業であると述べている。自然と人工は、対立する概念である。では、なぜ、近藤さんはあえて自然を人工的、人為的に解釈し直すと言うのか。

たとえば、ある絵画がどれだけ「写実的」に描かれようが、既にそれは、人間が経験等を通じて生み出した表象=イメージなので、そこになんらかの解釈が加わっているという意味では、すでに本来の自然ではない。つまり、描くことは必然的に自然をアーティフィシャルに解釈することである。近藤さんはそれを強調することで、自然の「アーティフィシャル」な解釈を殊更意識的に行なっている、と言っているのである。そこには、自然とは何か、それが個人にとって、イメージに再現されるとはどういうことなのか、という明確かつ深遠な問いかけがあるのである。実際のところ、近藤さんの話を聞くと、自然界と、それが絵画になるときのイメージとのギャップ、すなわち認識と制作の過程にとても意識的、分析的に取り組んでいることが分かる。

かつて、1990年代に、筆者がコオジオグラギャラリーで見た近藤さんの作品の中に、「写実的」に描いた乗用馬や狩猟犬の体の一部に楕円の穴が穿たれているイメージがあったが、これは、具象性の中に抽象性をくみこむという異化的な効果によって、自然を分析的に捉えているのである。あるいは、近藤さんがかつて描いた「絵のように美しい」山の絵画も実は、決して美的とはいえない図鑑の中の説明的な山の写真を見て描きつつ、山の高さを縦方向に拡張し、背景を平板な色面にするなどイメージを操作していた。つまり、図鑑の山岳写真を基に、イメージの誇張、抽象化によって、雄大さ、峻厳な姿を強調することで、自然を人工的、人為的に解釈していたわけである。今回展示された作品にも、さまざまなアーティフィシャルな解釈があるが、印象的なのは、空や川、森の中の一部に見られる「不自然」な色彩であろう。近藤さんは、自然界のことを「絶対的な対象」と呼んでいる。

近藤さんにとって、自然界は、自然現象の法則を探求する数学、物理学、天文学、化学、生物学、地球科学、あるいは哲学、美学、思想などの基盤をなすエレメントで構成される人間にとっての一義的な環境である。近藤さんは、そうした自然のエレメントを人工的、人為的に解釈していくのだが、その手法は近年、より複雑になっている。自分で撮影した写真や、雑誌、図鑑などの写真を基に、まず白黒でドローイングを描いて単純化する。それを数週間、長いと2、3年間置いた後、絵画になるイメージとして、その中から、3、4つ程度のランドスケープを見つけ、再構成していくのである。つまり、この段階で、近藤さんが描く風景は、当初の写真のイメージとつながってはいるが、離れている。絵画が生成されるプロセスでは、近藤さん自身の経験やエモーション、記憶、身体性、抽象性、情報、概念などに接続され、近藤さんにとってのランドスケープが生まれる。それは、自然界という人間世界の根底となる「絶対的な対象」のエレメントを解釈することを通じて、表象に変換するプロセスであり、近藤さんは、それこそが美術の本質だと考えている。

近藤さんは、絵画の表象へと変換される基になる、それぞれの人の中にあるランドスケープを「相対的普遍」と呼ぶ。つまり、それは、近藤さんの中においてのみ普遍性を帯びた風景であり、絶対的な対象である自然界のエレメントとつながりをもちつつも、人によって異なるという意味で「相対的普遍」なのである。近藤さんにとって、絵画とは、その内なる「相対的普遍」をベースに、アーティフィシャルに再構成されたものである。いわば、近藤さんの風景は、外の世界の自然のエレメントと架橋された近藤さんの中の風景、決して他者が入っていけない広大無辺な世界から抽出されたものである。では、それは、いわゆる心象風景なのかといえば、明らかに違うと思う。一般的に言われる心象風景が、あるとき、心の中に思い描かれたイメージで、絵画の題材になりうるものだとすれば、近藤さんの表象は、心に浮かぶ風景、つまり、それだけで描くことができるシンプルなイメージではない。むしろ、それは、現実の自然界のエレメントがきっかけとなって、近藤さんが自分の中の断片を拾い集めることで表象となった、もう1つの世界である。

近藤さんの中にある具象的なイメージでありながら、同時に抽象的であり、リファレンスするものがなければ、それだけでは決して具体的な風景として描けないもの、それでいて、近藤さんにとっては確かな「相対的普遍」としての風景である。同時に、それは、絶対的なものではなく、ある種の人間的な葛藤を内在化させた風景であり、新たな経験や心理、感情、記憶などによって変化していく。近藤さんの1990年代の絵画が、コンセプト寄りだったとすれば、現在の作品は、ドローイングなどのプロセスを反復・構成させることによって、より多層的になっている。それは、現実の自然界と接点をもちながら、近藤さんの中にある普遍的な風景という意味でリアリズムであると同時に抽象的で、そして、葛藤をはらみ、謎めいている。

美しく、同時に見たことがないミステリアスな風景である。自然界を模倣したのが絵画であるはずなのに、私たちは、雄大な自然を目にしたときに「絵のように美しい(風景)」という言葉を発してしまう。そこには、自然界(絶対的な対象)と、それぞれの人の中にある風景(相対的普遍)との倒錯がある。近藤さんのランドスケープは、この自然と人間、イメージをめぐる深遠な関係、問いかけから生まれている。

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近藤正勝 / 静止 / Super Gallery (名古屋) 2021年8月31日〜10月23日

名古屋でも、森の中の鹿を描いた大作と、小品を見ることができる。

 

(井上昇治)